児童の権利条約ができるまで⑤ -条約が抱える矛盾-

+++日本赤十字社 東北関東大震災義援金+++
http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html

 前回の記事で、児童の権利条約が採択されるまでの審議過程をみてきましたが、パターナリズム(保護主義)の解釈をめぐる東西の対立に、米国によるパターナリズム自体を批判するオートノミーの権利が導入されたことによって、森田氏によれば、

「『児童の権利条約』は論争的な条約」

「アメリカ的背景を持つ子どものオートノミーの主張が、ポーランド提出による社会主義型の条約草案のイデオロギーと複雑に練り合わされる課程の中で成立した作品」


となり、

「かつて『児童の権利宣言』起草にあたってアメリカ代表の主張を支えた『補充性原理』は、世紀初頭のパレンス・パトリエ理念の背後にある『家族の理想』と自然のparental authorityへの信頼に基づくものであった。今や、このparental authorityへの信頼は失われた。法・国家はもはや介入にあたっての補充性原理を守る必要性はない。国はむしろ『親の権力から子どもを保護する』ために家族関係に積極的に介入すべき存在である。」

と説明されています。そして条約の構造については、

「何よりも目につくのは、“parental authority”によって創り出される自律的親密圏というオーソドックスな家族像が姿を消しかけていることである。条約は確かに前文で家族の意義をうたい上げ、18条、27条には親の『第一義的な責任』を掲げてはいるが、そこでの家族・親子の構造は従来のそれとは異なっている。」

「『保護を受ける権利』のため国家の責務がその範囲と程度において著しく強化されていることに気づかされる。典型的事例は、『児童の最善の利益』を国家介入の鍵概念に据えた9条と併せて、国家の積極的な介入の責務をうたった条約19条の次の規定であろう。(中略)責務の拡大は権限の拡大を意味する。『オートノミーの権利』によるparental authorityの批判が、他方で、補充性の歯止めを失った国家の保護介入に新たな道を開くという論理的サイクルがここにはある。」

と説明し、条約自体が抱えてしまった矛盾について、

「『オートノミーの権利』もまた、これが親や教師のパターナリズムに対抗して主張される限り、具体的には、裁判所その他の国家機関の手で認定され保障されるほかはない。子どもと国家は直接の法律関係に入るのである。」

「『オートノミーの権利』の主張とparental authorityに対するその勝利の結果登場した、ここでの国家による積極的な『保護を受ける権利』保障の体系は、-論理的モデルとしてみる限り-まさにアメリカを筆頭とする西欧諸国が、『児童の権利宣言』起草時に警戒してやまなかった、東側の“国家による人民一人一人の捕捉の秩序”と酷似したものではないか。けだし、子どものオートノミーの権利の強調が、自然のparental authorityの批判(=補充性原理の後退)という回路を通ることによって、皮肉にも『権利』の名における新たな国家的保護主義を準備するというサイクルこそは、『権利条約』に含まれている最大のパラドックスなのである。」

と論じています。

 つまり、社会主義的な国家の保護を批判していたのに、家族の崩壊によって補充的保護という概念が崩れ、オートノミーを主張したものの、その権利を国家が保護しなければならないという矛盾に陥ったということではないでしょうか。

 そうした矛盾を内包した条約ゆえに、様々な解釈も成り立ち、児童の権利委員会のような偏った解釈も出てきますし、それを危惧して当の米国が批准しないという現象にもなっているのだと思います。

※参考文献
 「未成年者保護法と現代社会-保護と自律のあいだ-」
  著者:森田明、発行:有斐閣


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック