児童の権利条約ができるまで④ -条約の審議過程-

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http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html

 前々回の記事で、20世紀前半に米国で拡がったパレンス・パトリエ(国親)理念によるパターナリズム(保護主義)が、1959年の児童の権利宣言にも大きな影響を与えたことを見ましたが、権利宣言の審議過程においては、そのパターナリズムの解釈をめぐって東西の対立があったようです。森田氏によれば、

「『子どもの権利=保護を受ける法的地位』は、ノーマルに機能しない家族関係に法が介入して保護法の体系を構築する際の法的シンボルであった。この一点において、東西間に大きな隔たりはない。両者の相違は国家・法が果たす役割の相違にある。自由主義国家においては、法の(パレンス・パトリエ的)介入は、-義務教育をひとまず別にすれば-『親の無能力や不道徳』等の『緊急かつやむをえない場合』に言わば補充的に行われるべきものであった。過剰な法介入は、ロック以来の伝統において『自然権』と観念されてきたparental authorityの有機的性格を破壊するからである。これに対して、国家自体が家族に対する広範な生存配慮義務と権限を行使する社会主義国家の場合には、補充性の原理は棄てられる。むしろここでは、『子どもの権利』の名の下での法的関与が、実効性と拘束力あるものとしてあまねく子どもに行きわたってこそ『保護』は実質あるものとなる。」

という東西の考え方の違いがあったようです。

 その後、児童の権利条約を審議する過程にも、この東西の対立が引き継がれます。1978年に児童の権利宣言をそのまま条文化しようとしたポーランドによる条約草案が国連人権委員会によって採択されましたが、翌年には国家による積極的給付措置と権限を詳細に規定した社会主義陣営の保護主義が色濃い修正草案がポーランドから提出され、最終草案を作成するための作業部会が設置されます。

 権利条約の審議過程においても、当初は権利宣言時にみられたようなパターナリズムの解釈をめぐる東西間の論争で始まりましたが、そこに米国によってパターナリズム批判によるオートノミーの考え方が加わってきます(米国のパターナリズム批判については前回の記事をご覧下さい)。その流れについて森田氏は作業部会の論争の中で少しずつ草案が変化している様子を紹介しながら、

「総じて言えば、『ポーランドによって提出された条約草案は経済的・社会的権利を強調して市民的・政治的権利を無視している』という西側諸国からの保護主義批判と、これに対する『国際人権規約の規定をここで繰り返す必要はない』という東側諸国の反論に見られるような東西間の論争の枠組みの中で、アメリカによる市民的自由の提案が採択条項の中にジリジリと地歩を得始めたというのが、審議過程前半のこの時期の特徴であった。つまりアメリカによりパターナリズム批判は、少なくともこの時期、第一義的には社会主義国家型の『保護』に向けられていたのである。」

と論じています。

 その後、米国がプライバシーの権利や表現の自由、さらには結社および集会の自由を含んだ包括的な市民的自由条項を提案したのに対して、東側諸国が強く反対して審議が滞ります。この流れについて森田氏は

「いわゆる外部的な市民的自由(表現、集会、結社の自由)の規定をめぐって東西間の対立が高まり審議が膠着した時期であった。」

「“アメリカ法の国際法化”の提案を含んでいるかにさえ聞こえるこの強い主張にはオーストラリア、ノルウェー、カナダが賛意を示した。しかし、ソ連と中国はここでもアメリカ案への断固反対を表示し、(中略)『彼らが大人と同様に結社・平和的集会・プライヴァシーの権利を行使することは不可能である』と述べて一種の拒否権を発動した。」


と説明しています。そして、こうした膠着状態が大きく動いたのは、東西冷戦の終結という外部的要因であったと分析して、次のように論じています。

「87年に本格化した冷戦終結への政治的配置図の構造的変化は、条約案早期完成へのモメンタムを一気に高めた。このことは87年会期まで膠着を続けていた市民的自由をめぐる論争においてとりわけ真実であった。『人権』と『市民的自由』は冷戦の終結を導くにあたってアメリカがソ連に対して切った重要なカードだったからである。」

 その後88年に行き過ぎたオートノミーを憂慮した西ドイツによって西欧型保護主義の擁護に立ち返った提案がなされ、

「『この条約のいかなる部分も、親や法廷保護者がこの養育と福祉のために必要な措置をとる権利と義務に影響を与えるものではない』という解釈規定の新設を提案」

「提案は、一項で、国際人権規約その他に保障されたすべての人権は、子どもにも(抽象的に)あてはまることをうたった上で、二項で、“成年に達する以前の行為で成年者と同様の法的効力を例外的に子どもに与える部分的行為能力の制度化は各当事国に委ねられる”という定式を掲げた。」


ものの、大きな流れを変えられずに西ドイツの提案は取り下げられ、89年11月に児童の権利に関する条約は採択されることになります。

 こうした流れで成立した条約に対して、西ドイツは批准する際の解釈宣言の中で、

「本条約が『子どもの権利』について語る場合、条約は、子どもが自らの自立的な意思でこの『権利』をいつでも行使できるとか、代理人を立てて裁判所で主張できるとか言っているのではない。……ここでは保護的措置に対する子どもの位置関係が概括的に『権利』という言葉で表現されているにすぎないのである。」

という解釈を行い、条例の提案国であったポーランドでさえも、

「条約12条から16条の権利は、家庭内における子どもの地位についてのポーランドの慣習と伝統に添って、parental authorityの尊重の下に行使されるものとする。」

という解釈宣言をしています。

 ポーランドの提案から条例成立までの約10年の動きを、森田氏は次のようにまとめています。

「〈保護から自律へ〉の標語に象徴される今回の『児童の権利条約』のいわゆる“市民的自由条項”は、1960年代末-70年代のアメリカにおける保護主義批判のイデオロギーが、東西冷戦という国際政治の枠組みの中で、第一義的には社会主義的保護批判の武器としてアメリカによって繰り出される、というダイナミックで複合的な課程の中から誕生してきたものである。ポーランドによる条約草案の提出とこれに対する西側の反撃-冷戦秩序の崩壊と同時に起こってきた西ドイツの古典主義的抵抗-なかんずく条約成立後今日に至るまでのアメリカ自身の署名にすら至っていない『沈黙』という錯綜した流れは、右の複合的課程を視野に入れてはじめて理解可能なものとなる。」
(※この後、米国も95年には署名しましたが、未だに批准には至っていません)

 このような条約の成立過程は、条約自身が矛盾した内容を抱えることにもなり、米国が未だに批准しない要因ともなっているようです。この点について次回見てみたいと思います。

※参考文献
 「未成年者保護法と現代社会-保護と自律のあいだ-」
  著者:森田明、発行:有斐閣

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