児童の権利条約ができるまで①

 国連の児童の権利に関する条約について拙ブログでも何度か取り上げ、オートノミーとよばれる自己決定の権利が規定されていることや、一方では父母もしくは保護者の権利を認め、権利の行使にあたっての制限が設けられていること、また、児童の権利条約に米国が批准していないことなどをお伝えしてきました。

 例えば、条約の第5条は

締約国は、児童がこの条約において認められる権利を行使するに当たり、父母若しくは場合により地方の慣習により定められている大家族若しくは共同体の構成員、法定保護者又は児童について法的に責任を有する他の者がその児童の発達しつつある能力に適合する方法で適当な指示及び指導を与える責任、権利及び義務を尊重する。

となっていますが、同じ条文の中に児童が「権利を行使する」という文言と、父母や保護者が児童の発達段階に応じて「適当な支持及び指導を与える責任、権利及び義務を尊重する」という文言があり、自律と保護が入り交じっています。

 また、外務省のHPによれば、2009年5月現在で条約に批准していないのは、ソマリアとアメリカ合衆国だけです。

 条約の中に自律と保護の概念が交錯していること、米国が批准していないこと、この2つは一見何の関係もないように思えますが、児童の権利条約にオートノミーの権利が盛り込まれたのは米国の影響が大きかったことや、米国の国内での児童の法的扱いの変遷が係わっていることなどが要因にあるようです。

 そこで、児童の権利条約が制定されるまでに、国連でどのような議論がかわされたのか、また、米国の国内での児童の法的扱いがどのように変わってきて、条約に大きな影響を与え、それにも係わらずなぜ批准していないのかについて見ていきたいと思います。

 ここに、国立国会図書館が平成21年に刊行した「青少年をめぐる諸問題 総合調査報告書」という国立国会図書館調査及び立法考査局がまとめた調査資料があります。その中に、「子ども観の変容と児童権利条約」という論文がありますが、条約推進派、慎重派、様々な立場の研究者の論文を引用してまとめられていますので、先ずは、この論文によって、児童の権利条約の成立過程を見てみたいと思います。

 同論文によれば、それまで

「女性や子どもの権利という視点は抜け落ちて」

いたのが、

「18世紀以降、人権思想を前提として、子どもは子どもであり、大人とは違った存在であるとの考え方が次第に広がり始め」

たのですが、

「18世紀末にイギリスで産業革命が起こると、子どもが未熟練労働者として、劣悪な環境の下で働くことを強いられるように」

なって、児童の労働を法律で規制する動きが各国に拡がり、また、

「急速な産業化と都市化が、家族機能の分解と動揺を招いたことから、国家が子どもの保護のため、『パレンス・パトリエ』(国は子どもの最後の親である)の名で呼ばれた法のネットワーク(少年裁判所、義務教育学校、児童福祉制度)を構築し、家族に介入するようになった」

ようです。さらに第一次世界大戦後、

「子どもの国際的な保護に対する関心が高まり、1924年に『児童の権利に関するジュネーブ宣言』が採択」

され、第二次大戦後の1959年には

「新たな次代に対応すべく採択された『児童の権利に関する宣言』」

が採択されましたが、どちらの宣言も、

子どもの権利とは、やはり保護を受ける法的地位を指していた

とのことです。つまり、児童の権利に関する宣言までは、「子ども」という概念が特に意識されなかったのが、産業化と都市化が進んで、家族に守られなくなった子どもが現れたことによって、子どもを保護する必要が高まり、保護を受ける法的地位を子どもの権利と呼んだということです。

 そうした子どもの権利の概念が保護から自律へと変わっていった背景について、同論文は、

「1960年代以降、児童虐待と離婚の急増に象徴される「家族の崩壊」が、米国社会の大きな問題と」

なり、

「子どもは今まで親子の身分関係の下で抑圧され、自由な成長を阻害されてきたのではないか、様々な保護の権威から子どもを解放し、大人と同じ権利を与えるべきではないか、といった新たな考え方が出現した」

と説明し、米国において、そのような社会の変化のきっかけとなった判例として1967年のグールト(ゴールト)判決と1969年のティンカー判決などを紹介しています。

 ゴールト判決は、隣人の婦人にいたずら電話をかけた少年が、パレンス・パトリエに基づく当時の法律によって非公開の審理で6年間の少年院収容処分となったアリゾナ州判決に対して、連邦最高裁が、大人だったら罰金または2カ月以下の懲役であることを指摘するとともに、大人であれば認められていた被告人の諸権利が保障されていなかったことを指摘し、憲法で規定された適正手続(デュープロセス)の権利が子どもにも適用されるとして、州判決を破棄した判決です。

 また、ティンカー判決は、ベトナム戦争に反対の意思を示す黒い腕章を付けて高校に登校した生徒に対して学校が停学処分とした件について、「生徒あるいは教師が、言論ないし表現の自由に対する各自の憲法上の諸権利を校門の所で捨て去るのだとは、とうてい主張できない」という判断を下したものです。

 同論文は、このように子ども観が変容してきた米国の主張が、児童の権利条約の審議にも大きな影響を及ぼし、

子どもを保護するのは親か国家かという1959年児童権利宣言の審議段階で見られた対立に、保護主義そのものを批判する米国の主張が加わり、子どもの権利、とりわけ市民的自由の認否について、複雑な論争が展開されることとなった

と説明するとともに、

児童権利条約の誕生とともに、子どもの権利のとらえ方が、保護から自律へと単純に移行したかと言えば、必ずしもそうではない。何より、児童権利条約の審議を牽引した米国自身が、未だに条約を批准していない点が興味深い。米国には、子どもが成人と同様に権利を行使し得るのかという疑問と、子どもの権利が家族関係を破壊するとの批判が、今なお根強く存在し、それが条約の批准を拒む一つの要因であると指摘されている」

と論じています。

 以上、国立国会図書館調査及び立法考査局の「子ども観の変容と児童権利条約」という論文で、子供が保護の客体から権利行使の主体となる変遷を、大雑把にみてみました(相当端折っていますので、是非論文をご覧下さい)が、児童の権利条約の審議過程については、この論文でも引用されています森田明氏の論文によって、改めてみてみたいと思います。また、条約にオートノミーの権利を規定することに積極的だった米国が未だに批准していないのには、保守系の議員や人々の活動や批判があるからですが、これも改めてご紹介したいと思います。

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